世田谷区の『地域行政』について -1-

 今回から、私が全力を注いで取り組んでいます『地域行政』について、連続して掲載していきます。第1回目の今回は地域行政に触れる前に、まず現在に至る世田谷区の歴史を振り返ってみたいと思います。

世田谷区の歴史

明治初期、現在の世田谷区となる当時の村々は、東京府に28村、神奈川県に14村の合計42村でした。明治22年に市町村制が始まり、村の合併が行われ、東京府の世田谷、駒沢、松沢、玉川の4村と神奈川県の千歳、砧の2村が生まれました。この合計6村が、現在の世田谷区を形成する村々となりました。

大正から昭和初期にかけて、鉄道の開通や大正12年に発生した関東大震災による住民の移住などで人口が急増し、鉄道沿線の農地や山野が宅地化 されるようになってきました。その後、昭和7年10月1日に、東京市の区域が拡大されることに伴って、世田谷町、駒沢町、松沢村、玉川村の2町2村が合併 し「世田谷区」が誕生しました。さらに、昭和11年10月1日には、千歳村、砧村の2村が、世田谷区に編入され、現在の世田谷区の区域ができあがりまし た。当時の人口は23万人以上にもなっていました。

行政の拠点については、中心となる区役所に加え、昭和20年に「玉川支所」が、昭和22年に「砧支所」が開設され、この2支所の体制が、平成3年の地域行政のスタートまで続きました。

高度成長期には、東京に産業や人口が集中してきました。東京都の人口が1,000万人を超えた昭和37年には、世田谷区の人口は66万人に達し、昭和44年には75万人を超え、ついに大田区を抜いて23区で第一位となり、大都市へと成長していました。

こうした中、世田谷区では、道路や下水道の整備、ごみ処理、住環境の改善など、都市化に伴う様々な課題も抱えるようになり、都市基盤の整備が 求められるようになりました。そのころの23区は東京都の内部団体で、一般の市とは異なり制限された自治権しかなく、独自で行なえるのは義務教育や公園等 に制限され、それ以外は東京都が行なっていました。

その後、住民に身近なことはなるべく区が行なえるようにし、都市基盤の整備を進めるため、区の自治権がさらに必要になり法律の改正が行なわれ ました。その結果、23区と都との役割分担が明確にされ、都は総合的な企画立案や区間の調整を行なうようになりました。また、以前は東京都知事の同意を得 て、区議会が区長を選任する仕組みでしたが、これも区民が選挙で直接区長を選ぶ公選制が昭和50年4月に実現しました。

こうして基盤を整えることにより、世田谷区は、基本的に市と同等の権限を持つようになり、それ以降、区独自の仕組みとなる「地域行政」について、検討していくことになるのです。